治療についても語る意味
当院は自費で鍼灸治療を行う治療院です。
病気・悩みの改善・解消を目指して鍼灸治療をしていますが、鍼やお灸をする行為のパーツは鍼灸院のサービス全体の一部にしか過ぎないと考えています。
もちろん、鍼灸は主要パーツなのですが、鍼灸院に入ってきてから出ていくまでの一連の要素は本来一体不可分で、その「一連の流れの総合力」で改善・治癒が生み出されていくと考えています。
しかし、どうも医学的な観点から「改善・治癒」は「鍼を刺す行為・お灸をすえる行為のみ」で生み出されると思われています。
まずここに疑問があります…が今回は趣旨が違うので一旦横に置きますがいつでもどこかにその思いはあります。
もちろん、「鍼灸」が鍼灸院の「商品」なのだから、鍼灸院が「商品の品質向上(鍼灸レベル向上)を心がけることは当たり前に大事である」ということには異論はありません。
長々前置きを書きましたが、私にも単純に人並みに「鍼灸が上手くなりたい」という思いはあります。
鍼灸治療が上手くなるってどういうことを言うのでしょうか。
治療成績が上がること?
適応範囲が拡大すること?
技術レベルが上がること?
少なくとも、「自分自身が向上していると思えること」だと思っています。
そうすると、自分の現状が分かっていないと改善がみられたかどうかが分かりませんよね。
自分の治療のカタチを把握しているのか?
「自分の治療を語れるかどうか」が自分の治療を“自分自身が”理解しているかどうかの分岐点になると気づきました。
まず最初に私の立ち位置から。
一般論として『治療スタイル(流派や刺激量や道具など)は何でも良い』と思っています。
「みんな、それぞれ好きな方法で鍼灸すればいい」と思っています。
流派に属したければ属せばいいし、一人でやりたければやればいいし、刺激量や道具もみなそれぞれの自由に扱えばいいと思っています。
患者さんを治すために良いと自分が信じられる方法が、一番のパワー源になると思うからです。
治療に関して真剣な実践を経る人は、最終的には自分オリジナルに至るだろうし、そもそも自分の持てる資源(リソース)でやっていくからには必ずそれぞれオリジナルのカタチに至ると、私は思っています。
みんな自分流でいいじゃないか、と。
そういう意味からも、自己流に行き着くとっかかりとして流派に学ぶのはアリでしょう。
その学び方も一流派だけを深く学ぶ方法から多流派を渡り歩く方法まで多様で全くかまわないと思っています。
あくまで「自己流に行き着くため」という最終形態を意識していれば…です。
(…と私は思いますが、最初から自分を消してその流派のやり方に徹するという考え方ももちろんアリ。)
治療技術を高めるためには、自分の治療のカタチを把握する必要があります。
そこから発展・深化があるだろう、と。
「普通の治療を普通にしているだけです」と言うのは、ようは言い訳・逃げ口上なのだ、と。
だから言語化の先にこそ成長があるのだろうと思っています。
しかし同時に、“治療を語る”というのはどうも恥ずかしいですね…。
このカテゴリでは、気負わず書きたいことだけを自分の勉強のために書いてみます<(_ _)>