補瀉について
補瀉も含め治療観は「その人の世界観の反映」だと思います。
気はあるのか、経穴はあるのか、経絡はあるのか、脈は全身の反映なのか、腹は五臓の状態を映すのか。
ある人は「経穴はあるけど経絡なんかない」と言い、ある人は「気などない」と言い、ある人は「気や経絡を考えずに鍼灸など出来ない」と言います。
正しい答えなどない、というのが私の答えです。
イエスでもノーでもどちらでも良く、その人が信じるものが“正しい答え”です。
なぜなら、その人はその世界観によって治療を組み立て、治療を施し、“信じる気持ち”があることで効果が出ると(私自身は)考えるからです。
その一貫性にこそパワーが宿る気がします。
ですので、他の人の治療観を聞くことは、プラスの気づきにもなりますが迷いを生むことにもなります。
あんまり不用意にあれこれ聞かない方がいいのでは…、などと個人的には思う次第です。
『悩み事のネット検索(結果、悩みがより深まるパターン)』に似ている気がします。
世の通説は、“声のでかい人”“弁の立つ人”の意見が主流になりやすい、というのもあります。
自分の治療観を構築する方が先だよね、と考える次第です。
また、「教科書通りにキレイに世界を見通せるはずはない」とも思います。
大きなことから小さなことまで理路整然と世界を語りつくせるなんてありえない、世界はそんなに単純明快ではない、と。
少なくとも私には無理です。
だから、あやふやな・いい加減な・未明な部分の存在を感じながら、その欠落感を抱えながら、それでも日々の治療をやっていくのです。
そんなものです。
さて、前提が長くなりましたが【補瀉】についてです。
鍼をすると正気が補われて、虚が平の状態になる、これが「補法」。
鍼をすると余計な気血水や邪が取り除かれ、実が平の状態になる、これが「瀉法」。
これは伝統的な鍼灸治療の大原則、もう逆らえないアンタッチャブルな原理原則です。
まぁ、「補瀉」と一言で言いますが、多重な意味を含んでいます。
●「不足は補う必要性があり、余剰には削除が相応しい」という“原則”の意味
●脾虚からくる食欲不振に足三里の補法のような「虚が原因で呈している症状に合わせて経穴にも同じ状態が表れる、だからその経穴に鍼灸をすると経穴→病巣が補われるので、症状も改善する」(瀉も同様)という“理屈”の意味
●「実際に鍼灸で何がどう補われているのか、何がどう除かれているのか」という“実際の変化”の意味
●「具体的には○○というやり方が補法で、□□というやり方が瀉法である」という“技法”の意味
【原則に異論なし】
当然、虚実という状態はあって、それに応じて違うケアをすべきという“原則”に異論はありません。
陰陽論は好きだし(笑)
【理屈は大いなる闇・実際の変化が大事】
鍼灸で何を補い何を瀉しているのでしょう。
気血水を補い、それぞれのめぐりを整え、邪を除く…とは??
疲れ果てた人(気虚の人)に鍼の補法をすることで元気ハツラツになるのかと言えば、なりませんよね。
足三里に鍼をしてもいきなりエナジーチャージされはしません。疲れは寝なきゃとれませんよ…。
またそもそも、脾虚から食欲不振になっている人の足三里穴は「気虚反応」が出ているのか。そしてそれを補うことで「脾の虚も補われる」のか。はてはそういう風に理屈を展開させていっていいのか…?という疑問(臓腑理論への疑問)です。
「そんなの知らん」です、はい(^_^;)
そこは「信じるかどうか」でしょう。
もしくは「つべこべ言わずにやってみて変化を確認してみろ」という感じでしょうか。
「どういう世界観を持っているか」はやはり重要ですし、同時に「頭でばっかり考えていても仕方ない」面もあります。
とにかく、鍼をしてお灸をしようや、と。
あんまり考えすぎんなや、と。
これは逃げや思考の停止…かもしれませんね。
賢い人はどんどんこの思考の果てに向かって思索を深めていってほしいです。
その思索の旅から、ぜひどうぞ何かをつかんで持って帰ってきて、それを教えて欲しいです。
少々脱線しましたが、病態と経穴の関係性は「大いなるブラックボックス」だと思います。
そこには信念と疑念が混在しています。
『病態に応じた経穴があり、経穴にはその病態に応じた反応が出ており、その反応に合わせた鍼灸をすることで経穴反応に変化が出て、結果それは経穴に応じた病態にも改善をもたらす』ということに、私自身はしています。
【技法については結構無視】
まず経穴に補瀉するとどうなるのかということです。
解説的に言えば、「補法では、虚している部分に鍼灸することで、他の場所にある(気血水などの)正気が呼び寄せられ、結果としてその部分は補われる」でしょうし、「瀉法では、実している部分に鍼灸することで、その部分から(気血水・邪などの)有余が散らされる(別の場所に移動する)」でしょう。
ただ、それを聞いてもいまいち分かるような分からないような…。
「頭では分かるんだけど、実際の治療や患者さんの体でそれが分かる??」という感じ。
最終的に補瀉ができているのかどうかを判断するのは「症状に変化(改善)があったかどうか」になってきます。
…が、「大事なのはとにかく治ったかどうかなんだよ」だけでは身も蓋もないので、私自身は「補瀉の判断は経穴の変化が出せるかどうか」と考えています。
虚的な経穴反応が改善されたら補法完成。
実的な経穴反応が改善されたら瀉法完成。
注)“虚的な、実的な反応ってなんだ?”というのは今回は割愛。
経穴反応に変化を出すための“補瀉の技法”に関してはあまり意識しません。
伝統的な補瀉の技法というのがどうも信用できないからです。
「胡散臭いから信用できない」というより「理解できないから信じられない」に近い感覚です。
私が気にするのは「補うイメージ」と「瀉すイメージ」だけです。
経穴反応が空虚
→中心から満たされるイメージ
経穴反応がかたい
→周辺からほぐれるイメージ
経穴反応が粘りつくコリ
→粘りがサラサラになるイメージ
…などのイメージに合うような手技をします。
もうこれは勝手にします、自己流でします。
「ゆっくり刺して早く抜く」とか「右にひねる」とか「経に沿わす」とか、伝統的なやつはあまり考慮しません。
鍼灸して病的経穴に改善反応が出たらOKです。
ただし、もちろん、こんなに簡単に補瀉が上手くいけば苦労しません。
上手い変化が出ないこともあります。
出なければ(うまく出ないことだって平気にあります(>_<))刺激を追加するか、諦めるか、他の経穴とのコンビネーションに期待して一旦保留にするか、などをします。
そんな感じでやっています。