現代鍼灸と伝統鍼灸
現代鍼灸と伝統鍼灸
「現代鍼灸」は鍼灸の「流派のひとつ」です。
現代医学(西洋医学)の知識に則って鍼灸する考え方です。
解剖学的・生理学的に症状の原因をみつけ、それを改善させる鍼灸をする方法ですから、話を聞いていると実に理路整然としています。
先日、このような考え方をする先生のお話を聞いてきました。
その先生はしゃべりも達者でしたので、余計にその世界観は「実によくできている」ように感じました。
もう、脈診なんか要らないんじゃないか・解剖書や生理学書を読み込まなきゃ!と思わされます。
一方、「伝統鍼灸」という「流派」もあります。
日本では主に「経絡治療」(という流派)と同義のように使われますが、「日本に限らず伝統に則った鍼灸」という意味では「中医学」も含まれると考えます。
六臓六腑・補瀉・14経絡・五行穴…など、中国医学(東洋医学)の人体観で症状を把握して、鍼灸していく考え方です。
当院の鍼灸もこちらの世界観に属していますので、もっとしっかり問診・脈診磨かなきゃ!、取穴技術も磨かなきゃ!とか思うわけです。
どちらが優れているか、とかはありません。
流派による優劣はないと考えます。
今回は、現代鍼灸を信奉していらっしゃる方の話を聞いて、触発され感じたことを書こうと思います。
流派は親和性
私の中で「流派選びは親和性」で決まりです。
どの流派が良いか悪いかではなく、どの流派にシンパシーを感じるか・信じられるかが決め手です。
もちろん既存の流派に納得しない場合や、相応しい出会いが訪れない場合は、自分流でいいでしょう。
初めて出会った流派にそのままわき目を振らず邁進しても良し。
色々探して歩いた結果、自分が信じられるものにたどり着くも良し。
特定の流派には求めるものが見つからない場合は、我流を追求するのも良し。
真逆のような考え方の流派でも、それで治る人がいる事実からその流派を信じる価値はあります。
どの流派でも(我流でも)、治癒への道筋はあると考えます。
だからこそ自分の「信じられるかどうか」の熱量の方が重要。
私は現代医学的な人体観よりも伝統中国医学的な人体観の方に惹かれるので、やはりその方法で鍼灸を構築していきたいです。
結局は同じような場所に行きつく
今回、現代鍼灸をしている先生の話を聞き、実技を拝見しました。
たしかに、症状の診立ては現代医学仕様です。
そして、それに則った施術(=実技)でした。
ただ、実践的には伝統鍼灸との共通項が少なからずありました。
たとえば、現代鍼灸では「虚とそれに応じた補」という概念はないようでした。
しかし、やはり敏感な人や神経質な人には「軽めの施術をする」ようです。
湿熱がうっ滞しているような炎症では「血管や組織の滞留を刺絡してだしてやる」そうです。
一律の鍼の番手・電気の有無ではなく、人を見て「加減」していく様は、虚実を見て「補瀉」するのと同様に感じました。
このように最終施術形態が、流派によらず似てくるのは「結局治ったかどうか」を求めているからだと思います。
強すぎれば過剰刺激で悪化したり・弱すぎれば効果が出なかったりを繰りかえし、治すための最適刺激を求めると結局は似たようなところに行きつくのだと考えられます。
流派を超越した場所は結局同じ、なのでしょう。
なにせ、患者さんは同じ人間ですからね…。
まとめ
安心して自分の信じる道を進めばよい、のです。
信じられる流派が見つからない人は、ごちゃまぜでもいいのです。
「色々な流派の都合の良いとこ取りの我流」などと低く見られる「自分流」でもいいのです。
そもそも「●●流」をやっている人も、時代・業界・社会の影響は必ず受けています。
脈診なんか当てにならないと考える現代鍼灸の人も、天人合一の考え方自体を心の底から否定しているのかどうかは怪しい気がします。
コテコテの古典派の人も、現代医学で少しずつ解明されていく生理や病理の知見に自分の施術が影響されていないと言い切れるか怪しい気がします。
でも、それでいいのです。
あまりに原理主義的になっちゃう方が怖い気がします。
自分の信じるものの上に立って施術していく必要はあるものの、他を否定したり拒絶したりせず、柔らかく寛容であれることが健やかな施術になっていく気がします。
ギスギスした心持ちで施術してもうまくないでしょう。
もちろん、あんまりにも揺れ過ぎてもこれまたうまくないですが…(苦笑)
信じることと受け入れることのバランスが大事ですね。
なんだか人生訓のようになりました。
…が、仕事であり、生き方でもある。
これが鍼灸という仕事の良いところですね、鍼灸楽し(^^)/