鍼灸の名所探訪|佐倉順天堂記念館

幕末の蘭学(西洋医学)の礎は「佐倉」にあり

佐倉順天堂記念館・写真1

幕末の頃、佐倉は「西の長崎、東の佐倉」と並び称されるほどの洋学の先進地でした。

(鍼灸師としては哀しくも東洋医学を排斥していくことになる)西洋医学の躍進を支えた拠点になったのが「佐倉」であり、その中心が「順天堂」でした。

鍼灸とは直接関係が無いのですが、今回は医学の主流が「東洋医学から西洋医学へ」とスイッチする時代の潮流を味わえる場所、「佐倉順天堂記念館」の訪問記を書きます。

ちなみに、訪問記以上にウンチクも長いです…(;´Д`)
佐倉順天堂記念館にまつわる人物に、幕末から明治の時代のうねりが感じられる興味深い人物がたくさん出てくるからです。

江戸時代、佐倉藩のポジションとは

佐倉順天堂記念館・写真
【佐倉城下の地図】

佐倉市って、千葉県に住んでいても「どこにあるの?」という人も少なくない気がします。

私(院長)も若い時は、「成田と千葉…の間…辺り…だっけ?」くらいのイメージ。
千葉県の中でも、東京通勤圏内にはあるものの、電車の便も少なそうで、何があるかよく分からないエリアという印象でした。
すみません…、千葉県北西部民はどうも西(東京)に目が行き勝ちなもので…。

今では歴史と自然がたくさんある素敵な場所だということがよく分かって、ちょいちょい訪問しています。
「(子供にはその魅力が分からない)大人にこそ響く街」という感じです(笑)

まぁ、そんな「のんび~りした感」のある佐倉市ですが、江戸時代には、佐倉藩は重要拠点でした。

佐倉城そのものが、江戸の東にあたり、水戸街道や房総方面への睨みを利かせる重要拠点であり、初代藩主・土井利勝をはじめ、徳川幕府の重鎮がたびたび配置される格の高い藩だったようです。

そのせでしょう、江戸時代を通じて幕府の幕閣・老中のエリートポスト(土井利勝(大老)や堀田正睦(老中首座)など)を多く輩出しました(延べ8人の老中を輩出)。

スゴイですよね、佐倉。
今の「のんびり感」とのギャップもすごい。

なぜ蘭学の一大拠点になったのか?

幕末の佐倉で蘭学(とくに蘭医学)が栄えた最大の理由は、「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれた藩主・堀田正睦(ほった まさよし)による積極的な洋学導入と、稀代の蘭方医・佐藤泰然(さとう たいぜん)の移住による「佐倉順天堂」の開設が合致したためです。

堀田正睦(ほった まさよし)

佐倉順天堂記念館・写真3

堀田正睦(ほった まさよし)は、幕末の殿様。
佐倉藩の藩主で、幕府の老中首座でした。
政治スタンスは「開国派」で、そのリーダー格として日本の近代化を推し進めました。

アメリカ総領事ハリスと交渉し「日米修好通商条約」の調印に合意した人と言えば、政治家としてのランクがうかがえます。

しかしその後、
井伊直弼との政争に敗れ、老中を罷免(クビ)され失脚してしまいます…。

西洋オタク=蘭癖(らんぺき)

江戸時代に「蘭癖」とは、オランダ(西洋)の学問や文化に過度にのめり込む人を指す言葉でした。
「西洋オタク」ってことですね。

堀田正睦は、失脚する以前から、佐倉藩の藩政改革の中で蘭学を奨励し、この時点で世間から「蘭癖」と評されるようになります。

ガチガチの攘夷派(外国嫌い)だった前水戸藩主の徳川斉昭からは、「あいつは蘭癖(西洋オタク)だから気に入らない」として、堀田の老中就任に強く反対されます(でも老中になれました)。

このように「現役バリバリの開国派・西洋マニアの大名」だったようです。

幕末時点で佐倉の地には「蘭学を推奨する空気」があったわけです。

佐藤泰然(さとう たいぜん)

佐倉順天堂記念館・写真4

彼は蘭方医で、順天堂大学の祖となる人物です。

シーボルトが長崎で塾を設け蘭学志望者が急速に増えていた1830年代に、蘭方医を志し勉学に励んでいた佐藤泰然も当時の最先端の地・長崎に留学します。

3年間の長崎留学を終え、1838年(天保9)江戸に蘭医学塾「和田塾」を開きます。

長崎帰りの佐藤泰然の「和田塾」は、たちまち江戸有数の外科塾として名をあげたそうです。

ちなみに…、
和田塾があったのは、以前記事にした「江島杉山神社」がある場所からも徒歩15分程度の場所だったようです。
江島杉山神社は「本所一ツ目(ほんじょひとつめ)」にあり、和田塾は「日本橋薬研堀(にほんばしやげんぼり)」にありました。

当時の鍼灸師たちはどのような想いで、和田塾の活動を眺めていたのでしょうか…。

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佐倉に移った理由

評判高かった和田塾ですが、
しかし和田塾を開いて1年後、幕府により、蘭学者弾圧事件(蛮社の獄)が起きます。

「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」とは、「(異国船打払令などで)外国を追い払うのはおかしい(=もっと柔軟に対応すべき)」と唱えた蘭学者が弾圧された事件です。

この事件で、佐藤泰然の友人・渡辺崋山が郷里で蟄居を命じられ、蘭学者・高野長英は自首して永牢となり、小関三英は自殺しました。

佐藤泰然も、高野長英との関係から江戸の町奉行に要注意人物としてマークされました。

ブラックリストに載り、江戸での活動が危険になったため、江戸を離れたと推測されます。

では、なぜ佐倉だったのか?
江戸から佐倉に移った理由は特定はできないようです。

ただ、
佐倉藩主が蘭癖大名といわれた堀田正睦(ほったまさよし)であったことと、家老の渡辺弥一兵衛(自身も蘭方医術で大病を癒やされた経験を持つ)の誘いがあったのはたしかなようです。

1843年(天保14年)、佐倉の町外れに土地を求め、診療所 兼 蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設しました。

このように、
「先進的な学問を取り入れたい藩」と「弾圧を逃れ実践の場を求めた一流の蘭方医」のニーズが一致した結果が佐倉だったのでしょう。

佐倉順天堂

佐倉順天堂では、西洋外科に重点をおいた教育を行い、多数の優秀な医師を育てました。

順天堂の名声は天下に広まり、西洋医学を学ぶために全国から百数十名を超える人材が集まり、「日新の医学、佐倉の林中より生ず(日々進化する蘭医学は、緑豊かな佐倉の地より生まれる)」と語り継がれたらしいです。

佐藤泰然は、佐倉藩医として藩校でも蘭学を教えています。

また、
佐倉順天堂の治療は、外科手術の評判が高く、当時の最高水準でした。

院内に掲示された「療治定」(下に写真もあり)によると、卵巣水腫開腹術・割腹出胎術などがあります(いずれも麻酔薬を使わない手術!)。

日本初の「膀胱穿刺」手術や他にも乳癌手術など、種痘など蘭学の先進医療を行い、「順天堂」は、大阪の緒方洪庵の「適塾」とならぶ蘭学塾の拠点でした。

その後、
佐藤泰然の養子で、佐倉順天堂の2代目となった佐藤尚中(さとう たかなか)が、明治6年(1873年)に東京に「順天堂医院」を開設しました。
この東京の順天堂が母体となって「順天堂大学」へと発展しました。

佐倉順天堂も、佐藤泰然をルーツとする佐藤家(現在は佐藤仁院長)によって、記念館のとなりで医院を営んでいます。

佐倉順天堂記念館への訪問

佐倉順天堂記念館・写真6

現在の佐倉の街の中心地から離れた住宅地の一角に記念館はあります。
ここは、診療所 兼 蘭医学塾「佐倉順天堂」を記念する施設で、実際に1858年(安政5年)に建てられた建物の一部がそのまま使われています。

パッと見た感じ「日本を代表する蘭方医学の拠点」感はない…ですが、しかし、門構えから中に入るとピリッと気持ちが引き締まります。

蘭学拠点と言いながら和ベースの建物なのも、「ちょんまげ着物姿で西洋医学を学んだ」時代を感じます。

入館料100円。

実際の展示物はさほど多くないのですが、数多くある説明文に載る情報量がものすごいのです。
佐倉順天堂記念館・写真7

幕末から戊辰戦争、そして明治へ移行する時代のダイナミックさを感じます。

このタイミングで医学が大きく変わっていったんだな、とよく分かります。

まさに脱亜入欧。
それが良い事だけではないことは現代人ならわかっていますが…。

佐倉順天堂で行われたこと

西洋医学の最先端拠点、佐倉順天堂で行われた業績をいくつか書きます。

天然痘(てんねんとう)の予防接種

天然痘は、高熱が出て致死率も高い病気で、人々に恐れられていました。

佐藤泰然は、天然痘の予防接種を佐倉でおこないました。

嘉永2年(1849年)7月に、長崎に効果のある痘苗がようやく届き、接種に成功。
その半年後には、江戸を通じて佐倉にも痘苗が届き、種痘が開始されています。

泰然は、長崎で種痘の技術を学んでいたので、いちはやく佐倉で行うことができたのです。

なお、
病気でないのに医者にかからねばならない予防接種(種痘)を、当時の人々はやりたがりませんでした。
そこで、殿様の堀田正睦(ほったまさよし)は、自分の子どもたちに予防接種を受けさせ、害がないことを知らせ予防接種をうけるように伝えたと言われています。

結果、予防接種を受ける人が増えて天然痘にかかる人は少なくなったとのことです。

高度な外科手術

佐倉順天堂記念館・写真8

現在、当たり前に行っている外科手術も当時は不可能もしくは手探りの状態でした。

佐藤泰然は、乳がんの治療や、帝王切開などの手術を行い成功させています。

しかも、こうした手術は「麻酔なし」だったようです。
「えっ!?」ってなりますよね。

ただ当時の麻酔は副作用も強かったため、佐藤泰然は積極的に麻酔をつかわない方針だったようです。

安政元年(1854年)の『療治定』には、順天堂で行われていた手術などの治療の料金が記されています。
乳癌摘出、瘤摘出、割腹出胎児術(帝王切開)、造鼻施術といった高度な外科手術が行われていたことがわかります。

佐倉順天堂記念館・写真12

現代人の感覚ではそれらの手術を受けるのは「かなり怖い」ですが…。
なんと言っても「無麻酔」だし…。
時代が違う…というやつでしょうか。

インフォームドコンセント

佐倉順天堂記念館・写真9

佐倉順天堂記念館・写真10

治療での万が一の事態に対する責任所在などを明記した「手術承諾書」や、治療費を明示した「療治定」を取り入れていました。
現代に通じる医療システムの先駆けですね。

臨床重視の教育

従来の蘭学塾に見られた文献読解(オランダ語の習得)にとどまらず、解剖や臨床での外科手術を直に見学・実践させる方針を敷いていたようです。
実践派の医師養成塾だったようですね。

鍼灸師としての感想

佐倉順天堂記念館・写真11

訪問記よりもうんちくが長くなりました(これでもだいぶ端折りました)。

佐倉順天堂記念館を訪れてみて、幕末から明治にかけての急激な「東洋医学から西洋医学への流れ」のリアルな気配を感じられました。

脱亜入欧の熱量はすさまじいものがあります。

明治に入ると、政府の方針によって西洋医学が唯一の正規の医学とされ、鍼灸を含む東洋医学は「時代遅れのもの」として排斥されることになります。
たしかに、当時は日本中で「西洋科学万能」のような空気感に満ちていたのだろうと感じます。

鍼灸師の端くれとしては、そこだけを見ると複雑な思いもあります…。

あの時代、一気に「脱亜入欧」へと日本中が突き進んだのだろうことを体感しました。

そして現代は、西洋医学の素晴らしさを享受しつつも、それだけではカバーしきれない部分を東洋医学(鍼灸)で補うというスタイルが、求められている時代です。

幕末の佐倉で西洋医学の礎を築いた先人たちも、まさか令和の時代に、鍼灸師がこうして記念館を見学に来て感心しているとは思わなかったでしょうね(笑)

そう思うと、
鍼灸師にとってはちょっと「アウェイ」な聖地巡礼だったのかもしれません(笑)

幕末から西洋医学一辺倒に劇的に振れて、そして一周回って東洋医学の価値も再び見直されている現代。

そんな今の時代だからこそ、当時の「医学の大転換期」の空気をフラットに楽しめるのかもしれません。

入館料100円で、これだけ濃い歴史ロマンを味わえるのはかなりお得でした。

周辺には武家屋敷や佐倉城址公園など、大人のお散歩にぴったりな場所もたくさんあります。
また面白そうな場所に行った際にはご報告します。

【参考サイト】

佐倉順天堂記念館

順天堂大学の歴史